Photograph a Verres Combines Foyer Variable
状態の良いWESTERNのWE-555とKS-6368ホーンの組合せを聴かせていただくため、岡田さん宅にお邪魔させていただきました。リビングにあるExclusive 2402の広がりと豊かな低域を堪能した後、秘密の部屋にあるWE-555を聴くために2階へ上がると今回の目的が吹き飛んでしまうヴィンテージ・レンズとの出会いがありました。見たこともない古いレンズにダゲレオタイプなのかと思わせる写真スタンド、一瞬で心惹かれる。
ヴィンテージ・スピーカーとは違う、過ぎゆく深淵な時間を内包してきたレンズたち。このレンズで撮影するということは、現実的には連想しにくいのですが、心を捉えて離してくれません。
そのレンズたちを撮影できる機会を岡田さんからいただきました。
岡田さんは、オールド・レンズの研究家でもあり、丁度次の本の表紙撮影のタイミングで、Exclusive 2402の音を聴きながら作業ができる撮影スペースを貸していただけました。ありがとうございます。そこで、いつもこのブログの撮影を行なっているストロボやハッセルを持参して、お店を広げて撮影開始。
とにかく、レンズのオーラをご覧ください。 岡田さんのコレクションのほんの一部です。未知の世界ですので、解説は岡田さんにお願いいたしました。興味深い内容になっています。
スピーカーの話題ではありませんが、写真の起源がここにあります。ぜひご覧ください。
ジョゼフ・ニセフォール・ニエプスによって開発された「写真」の技術は、共同研究者でありニエプスの遺志を継いだルイ・ジャック・マンデ・ダゲールによって完成され、1839年8月19日にフランス学士院で発表された。そして世界初の市販カメラが「ジルー商会のダゲレオタイプ銀板写真カメラ」である。
このカメラに装着された世界初のカメラ用レンズは、シャルル・ルイ・シュバリエ製作の2枚貼り合わせの単玉レンズで、レンズの焦点距離は約340mm、明るさはF17と言われている。
シュバリエ一家は代々の光学技術者で、シャルルの父親のヴァンサン・シュバリエは精力的に望遠鏡や顕微鏡、カメラ・オブスクラ用のレンズを製造し、シャルルの息子のアルトゥールも後にレンズ設計者として活躍する。父親のヴァンサン・シュバリエ時代に、当時パリで流行していたジオラマ興行を行っていたダゲールが店を訪れレンズを購入しており、この時ヴァンサンは「シュバリエ工房は息子のシャルルがレンズを製作しており、自分はセールスマンだ」と発言したと伝わっている。この後もニエプスとダゲールの写真技術の研究とシュバリエ工房のレンズは関係が続き、その後必然的に最初のダゲレオタイプカメラにはシュバリエ一家のレンズとなった。
しかし父親のヴァンサンと息子のシャルルの関係は決して良好ではなく、意見対立で親子関係は悪化。1832年にシャルルは家を出て、独立して活動を始めてしまう。ヴァンサンは自分の正当を弟子のリシュブールとしてその工房を継がせたが、彼が1841年というカメラ発達史の中で微妙な時期に死去したことと、シャルルの父親譲りの積極性と顔の広さから、世界初のカメラレンズの称号は息子シャルルのものとなった。
ただし、彼の初期の単玉(2枚貼り合せ)のレンズは非常に暗かった(レンズ自体はf4であったが、球面収差を抑えるためf17にしていた)ことから、早々に改良され、その結果貼り合わせレンズを、撮影用途によって複数組み合わせて使用し、より明るいレンズの開発に成功したのが、今回取り上げたレンズ「Photograph a Verres Combines Foyer Variable 」である。
このレンズには多くのバリエーションがあるが、なんといっても「カッコいい」のはこの写真のようにレンズ下部がなだらかに広がり、エッフェル塔のように安定感のあるデザインのものであろう。眺めているだけで、エスプリが感じられるレンズである。
シュバリエのレンズは、1834/1841年にフランス産業振興協会のコンテストでトップの賞を獲得するが、その後のレンズ史においては、コンテストでは劣位であった「ペッツバールレンズ」が圧倒的なシェアを占め、シュバリエのレンズは歴史から徐々に姿を消していくこととなった。これは、シュバリエのレンズの画面全体を柔らかな空気が包むような描写よりも、周辺画像は暴れても中央部は極めてシャープに描写する「ドイツ式」ペッツバール型レンズが消費者からは評価されたためと考えられる。
しかし、絞りを入れればシュバリエレンズも非常にシャープであり、むしろ、販売数の差はシュバリエが自分の受賞レンズの製造をかなり限定した(もったいぶった?)のに対し、ペッツバールレンズは特許も緩やかであり、欧米各国で安価で模倣が可能であったというマーケティング的な要素が強いように思われる。
この鏡胴の中央部が縊れた独特の形状をしている金色に輝くバレルレンズは、後にSOM Berthiot社というフランス有数の光学企業に発展する礎を作った創始者のクロード・ベルチオClaude Berthiot (1821 – 1896)が製作したものである。バレルレンズとは文字通り樽型をしたレンズということで、レンズに「シャッターユニット」が付属していない「ガラスのみ」の状態のレンズを示す。
アンジェニュー(Angenieux), キノプティック(Kinoptik)と並ぶフランス3大光学メーカーの1つであるSOM ベルチオ(SOM Berthiot)であるが、同社社名のSOMはSociete d’Optique et de Mecaniqueの略、すなわち日本語ではベルチオ光学・機械工業株式会社ともいうべき会社名である。
同社名になったのは1913年であるが、元来は歴史ある眼鏡・ガラス職人であったらしい。レンズメーカーとしては、1857年にClaude Berthiot(クロード・ベルチオ)がパリ市内にレンズ工房を開いたのがその始まりで、1864年にはフランス写真協会(la Sociétéfrançaise de photographie)に加盟している。その後も同社は一貫してパリ市内にその拠点を置いた。
クロードはペッツバール型をはじめとする真鍮製の大判用レンズを製造したが、フランス人らしいデザイン性豊かな味わいのある外観のレンズである。しかし製造数はそれほど多くない。
その後、クロードの甥M.Lacour Berthio(ラクール・ベルチオ)が後継者となったが、会社組織となった1913年当時は第一次世界大戦の最中であり、同社もその後徐々に軍需品の比率を高めていく。フランス軍関係の光学製品である航空写真機器、測量機器、双眼鏡、ゴーグルなどをその業務の中心にしていったが、光学関係に止まらず、油圧トランスミッション、ジャイロスコープなども製造をおこなっている。!
第二次世界大戦後はフランス最大の光学企業にまで拡大、民生品の生産も再開したが、スティルカメラよりむしろムービーカメラへのレンズ供給を主体として行っている。
戦後のSOM ベルチオのレンズはスティルカメラ用が「FLOR」、ムービーカメラ用が「CINOR」という名が付けられており、わかりすい。生産数的にはCINORのほうがFLORよりはるかに多く製造された。
ムービーの世界ではアンジェニューと熾烈な戦いを行っており、1950年台にはズームレンズの Pan-Cinor を発売し、アジェニューのズーム群に対抗している。1964年にFOCAの製造で有名なOPL社と合併し、SOPELEM社へと変貌を遂げ、1980年にはSFIMに吸収され、その後SFIMの合併によってSAGEM、そして現在は防衛、航空、通信分野のフランスの複合企業体SAFRANというコングロマリットの一部になっている。
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ダゲレオタイプの登場からおよそ35年後、ベルにより電話が発明され、同時にこれがスピーカーの起源にもなります。写真とスピーカーの起源は、同時期的な発明だったんですね。さらに1973年には電気自動車も実用化され、まさに三大趣味の起源と言える時代の様です。ガソリンエンジンの自動車より先に電気自動車が生まれていたとは驚きです。
岡田さんの古典レンズ研究のサイトはこちらです。
岡田さんも、未知の世界の住人で、また師匠と思える方が一人増えました。
www.oldlens.com